2010年7月30日金曜日

キビの海、ツルの川、捕れたてウリの刺身

中嶋さんの畑にお邪魔させていただきました。

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見渡すかぎりのとうもろこし。一日おきに数列まいたそうです。毎日収穫できるわけですね。 なるほどー。

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延々と続く丸いも畑。ツルの手当が大変なんだそうです。川に流れる藻のようです。

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おみやげにメロンをもらいました。今日の日差しでちょっと温かいけど皮を剥いて素手でつかんで、さっそくペロリ。
船上で食べる刺身のような気分。まるで漁師だ!!

2010年7月28日水曜日

それ、そのものの味

百姓T.中嶋さんから野菜をいただきました。「今度一番いい時期の枝豆を持って行くから食べてみて!」と言われていた品物です。

「枝豆は私が今まで食べた中で一番美味いと思います。収穫時が半日ずれただけで味が変わりますので栽培と収穫タイミングが非常に難しいです。」(メール)

畑から引っこ抜いてきたそのものでしたが、直ぐに茹でてパクリ。

あっ、違う。というか普通。

普通?というのも変だけど、そのものの味を自然に感じる食味。と言ったほうがいいのかな。

歯ざわりがプチプチして、香りがぷ〜んとして、一粒一粒の味が際立っている。(個性が感じられる?)・・それって余計なものが無くてストレートであり、素直にありがたさが伝わってくる優しいものでした。「う〜ん何に感謝したらいいのだろう。」と一瞬つまらない気持ちになり、いろんなものに感謝した次第です。

採れたてのものを畑でガブリとやる光景は違和感が無くなってきています。

そういえば、ついこないだも小濁のきゅうり畑で、もいだその場でガブリ。

きゅうりってヌルッとしていて、痛くて、苦味も香りもあるものなんだけど、きゅうりが自ら表現しているものって、いったいなんなんだろう?またまたこんなことを考えながら・・・

料理も仕事の私にとっては産地での経験はものすごい財産です。

素材と勝負では勝てっこないなら、どうやったらそのものの味を活かせるか。むしろ自分に挑戦なんだろう。そう思います。

また良いことを学ばせてもらいました。

2010年7月19日月曜日

みんなの道は、私の道

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今日は、小濁の「道ぶしん(道普請)」。道ぶしんとは、道路のメンテナンスのことです。
メンテナンスと言ってもアスファルトを修理したりゴミを拾ったりすることではありません。
道の側溝をさらったり、路肩の草を刈り払ったりする作業で、夏は恒例の草刈りです。
このあたりの山では梅雨があけた今ころが夏のピークです。
今日は、小濁集落の全住民と、田んぼや家がある縁の人達総出で汗を流しました。
今日は暑かった!!
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作業が終わると、お疲れ様会です。年に一度の顔合わせですが、昔の良き思い出に花が咲き、村を降りてはしまったものの、小濁を愛する気持ちがひしひしと伝わってきます。
奥深い繋がりを感じて、私などが仲間に入っているのが申し訳ないです。
でも、こうやって集まれることは、たやすい事では無いんです。


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この時期やはり、木苺が実ります。
沢山無いのですが、実がなる。というのがすごくありがたい気持ちがします。

さて、道というのは一言では言えない大切なものです。
道が無いと村と村を行き来できません。道が無いと米や農作物を運べません。道が無いと緊急の時にまごまごしてしまいます。
あたりまえなんですが、ものすごく大事なことです。
歩かない道は無くなります。
必要のない道はメンテナンスしなくなります。
使われなくなった田んぼ、畑、家、・・それらをつなぐ必要の無くなった道は見事に消えていきます。

山の田んぼや畑が使われなくなると、山の保水力が落ちて、地すべり、土砂災害・・山が荒れ、動植物の豊かな生態系も崩れていきます。
生活に不便な山を離れる人は少なくありません。高齢化が進み、人が住まなくなって、道もいらなくなり、こうして道ぶしんをする必要が無くなってしまう日がいつか訪れるでしょう。(きっとその時には下流の平野、その先の海。そこにある街、そこに住む人は、豊ではないだろうと想像します。)
私は、この小濁はそうしたくない。
小濁ばかりでなく、農によって守られてきた新井南部の山里は、この地域にとってとても大事なもの。
私は勝手にそう思い込んでいます。

2010年7月18日日曜日

マコモと大豆と12の木

昨日の小濁は天気から雷、雨、天気雨…とくりかえしだったのですが 今日は一転、朝からすばらしいお天気でした。

気になっているのはマコモと大豆。 小濁分校を抜け出し、ちょっと山へ行ってきました。

マコモ畑から下のマコモ畑の風景。 緑がまぶしいです。。

ずいぶん大きくなりました。 160〜170センチくらいありそうです。 根元はあまり変わりないようですがさわってみると、しっかりつまっているかんじ。

そして待ちに待った大豆。 あんなにあったのに畑に植えてもらったのはこの1列のようです。 さてさて今後はどうなりますやら。。

ちなみにこの大豆の畑の下に12の木があります。 なにげに立ち寄ると池にはかなり大きなおたまじゃくしがいっぱい(ウヨウヨ…驚!)といました。

これが全部カエルになったとして、 12の木の池が昔の市民プール(特に夏休みがものすごい混み具合でとても泳げる状態ではない)になるのかと想像してしまいまいした。

あぁやっぱり写真に撮ってくればよかった(悔)。

2010年7月12日月曜日

発生。はいもち病?

昨日、有線放送で言ってました。新井南部地域で「はいもち病が発生しました・・」
はいもち病って、いもち病のことかな?
稲科のマコモは大丈夫?

今日も雨降り、最近小濁に行ってませんが、大豆、木イチゴ、マコモ・・その後どうなったのかな〜。
山崎さん、農ワークのみなさん、レポートくださ〜い。

2010年7月10日土曜日

ミヤマツ情報

情報が入ってきましたので、私の備忘録として・・

先日の ミヤマツの事 お義父さんに聞きました!  もうすでに 知っている事ばかりかもしれませんが…
ミヤマツは 山葡萄より葉っぱは小さく 実は 山葡萄は葡萄と同じく 山形の房になりますが ミヤマツは そんな房にはならないそうで 味は山葡萄より甘いそうです! 山葡萄は 標高の高い所にあり 樽本 上小沢に多く見られ ミヤマツは 標高の高くない所で 見られるそうです。猿橋近辺の山にあるかどうか 探したこと無いので 判らないそうです。 後葡萄の挿し木はやったこと無いそうですが、実を収穫した後するのでは?との事でした。参考にならないかもしれませんが ご報告まで。

2010年7月8日木曜日

ますますやる気!…ミヤマツ失敗して

挿し木床が動物に踏まれ、残った苗も・・
「伸びた新芽のツルが一本・二本・・・と枯れていったものです。
雨降りが続いて土が過湿になると根腐れを起こすので雨が当たらないようにランの小屋に入れて水
管理をしていましたが・・」

と、期待していた我々に残念なメールが届きました。
難しいものですね。

中嶋さんからです。----------------------------------------
失敗の原因はいくつか推測が出来ますので、来年は何通りかの方法で再挑戦してみます。
挑戦ついでに、通 常の接ぎ木は早春にするのですが、秋に1回試してみたいと思っています。
また、秋にうちのミヤマツの種を採取 して種からも育ててみたいと考えています。
増殖が難しければ難しいほど「よ~し!」という気が出てきます。

人の手が入っていない山で絶滅寸前ということは自然増殖が難しいので人工的に種の保存・増殖してやることも必要なのかもしれません。

小濁のプログを見せてもらいました。
木イチゴや野イチゴにも種類が幾つかあり、これも年々少なくなっているように思われますので種の保存も考えた方が良いのかも・・・。

動物の絶滅危惧種や高山植物の減少は頻繁に話題 になりますが身近な植物の絶滅危惧種をもっと気にかける必要があると思っています。
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同感。
昔の山は人が手入れして、いろんな動植物が生息していた。と本で読みました。
子供の頃は街育ちの私でも、小濁にいて少しずつ実感するようになってきました。
里山の生態系が大きく変わってきたからですね。

農や食にも関わりの深い、きっといろんなテーマが見えてくるはずです。
中嶋さんに負けてはいれません!

2010年7月4日日曜日

食べ物を捨てるなんてもってのほか


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Originally uploaded by neochef
古民家をサイコー(再生)することで気づいた事が山ほどあります。
その一つ、ゴミ。その感覚が大きく変わりました。

これも郷土料理研究で考えた事なんですが、昔の暮らしでは、身の回りのものを上手に使った。というより、わざわざ買うこともなく、利用することが当たり前だった。
米や野菜を作り、山菜と採り、川の魚や貝を捕る。
木や竹や藁や土、植物などで、家から道具、衣類、なんでも作りました。

素材が天然のものだから、そこから発生する害も少なかった。そのため、不要になったものは、リサイクル、リユースするか、「川に流す」「山に埋める」によって自然に返るのが自然の事で、非常に優しく循環していたように思えます。
そんな習慣があるためなのか、文明の人工物が氾濫する現代に、”腐食しない物”の投機、放置の多いこと。

なんでこんなことになったんだろう??

私は古民家から出た可燃物ゴミ、埋め立てゴミを見て呆然としました。
庭を片付けては腐食せずに出てくる、空き缶、ビニール・・。(批判じゃないです。そういう習慣だった。んです。それに分かりきって始めました)
自然に戻らないものがありすぎる・・。
このゴミを処分するのにどれだけの人の手と施設と費用が係るんだろう・・。
それに、これを地球のどこかに埋め直して地球が喜ぶだろうか?
実感しています。なぜなら、仲間と古民家サイコー(再生)で、3ヶ月かけた成果が、”ゴミがようやく片付いてきたこと”に尽きるからです。

それは、普段の生活を見直すことになりました。
「処理にコストの係るゴミを出したくない。そんなゴミが出るものも買いたくない。」
頭では解っていたけれど、小濁の自然の生活空間の中でそれを体験することのリアルなこと。
それより、なんでもっと身の回りにあるものを使っていけないものなのか?
不用品をもらったり、交換したりすることが、財布に優しいばかりでなくものすごく良いことをしているような気がしてなりません。
1.捨てられて処理する(埋め立てる)費用と環境の悪影響が緩和された
2.新たに製造するための環境破壊や資源の消耗が緩和された
消費の減少による経済に影響ある?・・でも、本来、不要なものを消費しようとしていたなら問題ないです。

さて、食べ物も同じだと思います。
なぜ、人は文化と呼んで、ものすごい遠い地域から食べ物を運んできて消費したいのでしょう?
珍しい食べ物は嬉しい反面、ちょっと度が過ぎていませんか?何でもかんでも買うことが当たり前。
食材以外にも、加工品、料理として。(あくまでバランスと質についてですよ)
「時間が無いから」「買うほうが安いから」「手軽で美味しいから」・・そうでしょう?

もっと作りませんか?食も、料理も。
作ると学べます。「なんで買うと安いのか」「喜んで消費していたものが安すぎないか?」も。
それに、身の回りのものを食べませんか?山菜でも草でも。自分で食べるだけのものなら、そう怒られはしません。家庭菜園もいいし、人から出来すぎて要らなくなる野菜を、大喜びでもらおうではありませんか。あくまで私感ですが。

ところでゴミの話しですが、食べ物がゴミになる事ってありますよね。
それも、時間が無いから、買うほうが安いからと言って、買ってきた食べ物。宴席の料理。
私は少し前まで、「あなたが食べなければ死ななかった命がある」から、食べ物を残す事は良くないんじゃない?と、言える人には言っていました。
「人間様に食べてもらうために産まれてきた動物は食べられる事で本望」という農家の話しに感動したこともありました。それでも、嫌いな物は無理して食べることは心身に良くない。とも思っていました。

小濁でゴミをどうにかしなくてはならなくなった経験でまた一つ覚えました。
捨てる事で無駄なエネルギーが何倍も失われるのだ。ということ。

「食べ物に感謝しなさい!戦時中は・・・」というのは昔の人の口癖だったそうですが、こんなに環境問題がささやかれる現代で、食べ物を捨てるなんて断じて許されることでは無いと思うのです。
私は仕事で食べ物を沢山捨ててきました。もう戻りたくありません。